脂肪吸引|医学3

● 脂肪吸引の歴史

Dr.木村とフィッシャー会長
(1996年5月) 

 元々、1977年にフランスのフルニエ、またはイルーズらが創めたとされますが、その原型はイタリアのフィッシャーが行っており、フルニエはフィッシャーから学んだと言っております。後年フィッシャーは何度か来日されており、学会出席での際、私、.木村も挨拶の傍ら、その話を通訳を介して聞いております。(フィッシャー・フルニエ・イルーズは脂肪吸引外科学の開祖)  
そして日本で脂肪吸引が初めて紹介されたのは高須克弥先生によってですが、実は皆が全く信用せず非難轟々でした。後になって実は正当な美容医療とは位置づけら診療が始められたのは昭和58年頃からです。
しかし当時はまだ黎明期で全身麻酔を掛けては血だらけで行っていました。自己血輸血も行なわれていた程です。だから脂肪吸引に馴染めない美容外科医師は「脂肪吸引とは血液吸引!」と揶揄していました。しかし、アメリカはフィラデルフィアの皮膚科医 J.クラインが1980年代後半にTumescent Techniqueを開発してから出血が極端に少なく安全に出来るようになりました。。
その流れで日本でも平成元年、日本美容外科学会地方会で「外来でできる脂肪吸引」としてライブサージェリーがあり、私も出席しましたが、他の医師と「脂肪吸引が日帰り手術で出来るなんて信じられない。」と話しておりました。 その後日本でもこのTumescent Techniqueが一般的になり、今日の脂肪吸引の隆盛を見ています。( J.クラインは脂肪吸引外科学の中興の祖)

● Tumescent Techniqueを駆使すれば出血が少ない

太もも内側+膝周囲の脂肪吸引の術前と術後

グロ画像で申し訳ありませんが、脂肪吸引の吸引操作の前に、Tumescent液(大量の生理食塩水+麻酔+血管収縮剤)を皮下脂肪のい一粒一粒の隙間に行き渡らせるようにすれば、血管収縮硬化で肌は真っ白になります。この状態で吸引を行えば術中の出血も少なく、手術終了時に特段の皮下出血班が生じません。
 アメリカのJ.クラインが1986年に世界で始めて提唱したTumescent Techniqueとは、こういう事で、それまですごく出血の多い危険な手術と揶揄されてきた脂肪吸引が安全で取りムラ(凹凸)の少ないものになったのです。
 0.05%リドカインと100万倍ボスミン混入の冷却生理食塩水をTumescent液と言いますが、別名 クライン液と言います。

● 術後は必ずドレーンを入れて圧迫

脂肪溶解注射翌日にはドレナージされた液が滲み出ている

 私が平成8年にサーフロー針(柔らかなテフロン製の留置針)に横穴を開けたものを経皮的に刺して残ったTumescent液と術後の出血の排出(ドレナージ)を図るべきとJSAS(十仁系美容外科学会)で発表しましたが、写真のように翌日みると包帯の外側まで染み出ているのが分かります。

(なお、サーフロー針に横穴を開けたものを経皮的に刺してドレナージを図るのは私の発案ではありません。久留米大学形成外科で行われていたものを整形外科の研修医だった私が見せてもらい、以後私も多様するようになったものです。これは肉眼的に瘢痕を残さず、液が溜まり易そうなところの皮膚に直接、ドレナージ目的の針をさせるので、非常に有用性が高いです。久留米大形成外科の先生方に、この場を借りて御礼申し上げます。)

● ドレナージ・・・だから尻+大腿全周では入院が望ましい

出た血液・組織液と抜いたサーフロー針

 上記の人の包帯を外してみればこのようにドレナージ(排出)が認められていました。右の細いのがテフロン製のサーフロー針です。
 ドレーンの留置を行わなければ、左記の血液や組織液がしばらく皮下に残され吸収を待たねばなりませんが、俗に「吸収熱」と言って血腫などが分解するさい局所の発熱・発赤・痛み・腫脹を伴い苦痛ですし社会復帰も遅れます。また、僅かな事を言えば、血腫は全て吸収されるのでなく一部は器質化して厚みを持ち、スッキリ細くなるのに若干マイナスです。また器質化した組織は「瘢痕」などと言いますが、ツレやしこり等と小さな不満足の原因になりがちで、やはりドレーンを入れることは、よりベストな術後ケアと考えます。
 脂肪吸引の範囲が狭ければ日帰り手術の翌日ドレ―ン抜去で良いですが、お尻+大腿全周は範囲が広過ぎますから入院が望ましいでしょう。